土山城跡の見どころと歴史を解説!アクセスや駐車場の情報も調査してみました。
土山城跡の歴史と見どころを巡る旅へようこそ。この記事では、まず土山城跡は何県にある?という基本から、甲賀の地に築かれた城としての特徴、忘れられた古城の歴史、そして城主・土山氏の物語と名将たちが残した痕跡を紐解きます。
さらに、土山城跡へのアクセスと城めぐりガイドとして、最大の見どころは馬出し遺構である理由や、おすすめの城めぐりルートを提案。バスや車でのアクセス方法、無料駐車場の場所と注意点も網羅し、文化財としての価値と現状にも触れます。
まとめとして、あなたが土山城跡で歴史を感じるための完璧なプランをこの記事で完成させましょう。
- 土山城の歴史と城主・土山氏について
- 秀吉が改修した可能性を示す「馬出し」などの見どころ
- 初心者でも安心な城めぐりルートと所要時間
- バスや車でのアクセス方法と駐車場の詳細
土山城跡の歴史と見どころ
この投稿をInstagramで見る
- 土山城跡は何県にある?
- 甲賀の地に築かれた城
- 忘れられた古城の歴史
- 城主・土山氏の物語
- 名将たちが残した痕跡
土山城跡は何県にある?
土山城跡は、滋賀県甲賀市土山町に位置しています。甲賀(こうか)といえば、忍者の里として全国的に有名ですが、この地には数多くの中世城郭跡が残されており、土山城跡もその一つです。
地理的には、野洲川と田村川の合流地点からほど近い丘陵の先端部に築かれており、眼下にはかつての東海道である土山宿を見下ろす戦略的な要地にあります。現在は静かな住宅街と山林に囲まれていますが、当時は交通の要衝を監視する重要な役割を担っていたことがうかがえます。
甲賀の地に築かれた城
土山城は、甲賀地方に点在する典型的な中世城郭(国人衆の城)の特徴を持っています。この地域の城は、一辺が30m~50mほどの四角い郭(くるわ)を土塁で囲んだ「方形単郭」を基本構造とすることが多いです。
これは、「同名中(どうみょうちゅう)」と呼ばれる甲賀武士たちの共和的な組織によって、共通の規格で城が築かれたためと考えられています。土山城もこの基本構造を踏襲しつつ、他の城には見られない独自の進化を遂げている点が大きな特徴です。戦国時代の甲賀武士団の息吹を感じることができる、貴重な城跡と言えるでしょう。
忘れられた古城の歴史
この投稿をInstagramで見る
土山城は、室町時代の文明年間(1469~1487年)に築かれたとされる古城です。しかし、織田信長の天下統一事業の中で歴史の渦に飲み込まれ、落城・廃城となった後は、長く忘れられた存在となっていました。
現在見られる遺構は、驚くほど良好な状態で残っていますが、これは江戸時代以降、開発の手が及ばなかった丘陵地帯にあったことが幸いしました。
派手な天守閣や石垣がないため、一般的な城のイメージとは異なるかもしれませんが、土塁や堀切が織りなす縄張りは、戦国時代の息吹を色濃く残しています。まさに、歴史の中に埋もれていた古城の姿を、ありのままに体感できる場所なのです。
城主・土山氏の物語
この城を代々治めたのは、甲賀五十三家に数えられる有力な国人領主、土山氏です。土山氏は、音羽野城主であった頓宮(とんぐう)氏の次男・土山盛忠を祖とする一族で、この地の名門として知られていました。
戦国時代、最後の城主となったのは土山盛綱(もりつな)です。1582年(天正10年)、天下統一を進める織田信長の家臣・滝川一益(たきがわかずます)の侵攻を受け、激しい戦いの末に土山城は落城。
ここに、長年この地を治めてきた土山氏は滅亡し、その歴史に幕を下ろしました。城跡に立つと、故郷を守るために戦った一族の物語が偲ばれます。
名将たちが残した痕跡
この投稿をInstagramで見る
土山氏の滅亡後、土山城は歴史上著名な名将たちによって再び利用されたと考えられています。その筆頭が、天下人・羽柴(豊臣)秀吉です。
1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」の際、秀吉は伊勢方面への進軍拠点として、甲賀の地に3つの城を築かせ、自らも土山に滞在したという記録があります。土山城に見られる、甲賀の城としては異例の高度な防御施設「馬出し(うまだし)」は、この時に秀吉軍によって改修された痕跡ではないかと推測されています。
土山城に関わった名将
- 滝川一益(たきがわ かずます):織田信長の家臣。土山城を攻め滅ぼした武将。
- 羽柴秀吉(はしば ひでよし):後の豊臣秀吉。小牧・長久手の戦いの際に、この城を改修して利用したとされる。
土山城跡は、土山氏だけでなく、戦国時代の名将たちの戦略の一端に触れることができる、歴史的に非常に興味深い場所なのです。
土山城跡へのアクセスと城めぐり
この投稿をInstagramで見る
- 最大の見どころは馬出し遺構
- おすすめの城めぐりルート
- バスや車でのアクセス方法
- 無料駐車場の場所と注意点
- 文化財としての価値と現状
- まとめ:土山城跡で歴史を感じる
最大の見どころは馬出し遺構
土山城跡における最大の見どころは、主郭(城の中心部)の南側に設けられた「馬出し(うまだし)」と呼ばれる防御遺構です。馬出しとは、虎口(城の出入り口)の外側に設けられた小さな区画のことで、敵の侵入を防ぎ、城内から打って出る際の拠点となる高度な防御施設です。
甲賀地方の城郭で、これほど明瞭な馬出しの遺構が見られるのは非常に珍しいとされています。これが、土山氏滅亡後に豊臣秀吉などの手によって改修されたと考えられる大きな理由です。主郭と土橋で繋がれた方形の空間は、当時の緊迫した状況を雄弁に物語っています。
おすすめの城めぐりルート
土山城跡での城めぐりは、南側の登城口にある城址碑と説明板からスタートするのが一般的です。平均的な見学時間は約45分とされていますが、遺構をじっくり楽しむなら1時間ほど見ておくと良いでしょう。
おすすめルート
- 登城口:城址碑と説明板で概要を予習します。
- 曲輪Ⅴ(角馬出し):最初の虎口。ここから城内に入ります。
- 曲輪Ⅳ → 曲輪Ⅱ(馬出し):土橋で繋がれた郭を進み、最大の見どころである馬出しへ。
- 主郭(Ⅰ郭):四方を土塁に囲まれた城の中心部。北側には二重の堀切も残っています。
- 西側の曲輪:時間があれば、谷を挟んだ西側の尾根にある曲輪も見学しましょう。
登城口から数メートルは少し草が生い茂っていることがありますが、すぐに歩きやすい道になります。夏場でも比較的見学しやすい城跡ですよ。
バスや車でのアクセス方法
土山城跡へのアクセスは、車が最も便利ですが、公共交通機関(バス)を利用することも可能です。
車でのアクセス
国道1号線旧土山町役場前(現・甲賀市土山支所)の信号を北へ曲がり、県道9号線に入ります。道が狭い住宅街を通るため、ゆっくり進みましょう。
バスでのアクセス
JR草津線の「貴生川駅」または「甲賀駅」からバスを利用します。「近江土山」バス停で下車し、そこから徒歩で約10分(500mほど)で登城口に到着します。貴生川駅からのバスは比較的本数が多いです。
無料駐車場の場所と注意点
土山城跡には専用の公式駐車場はありません。しかし、車で訪れる場合は、登城口近くの「畑組集会所(公民館)」の敷地に駐車させていただくのが一般的です。
駐車する際の注意点
集会所の駐車場は、あくまで地域の方のご厚意で利用させていただく形になります。イベントなどで使用されている場合は駐車を控え、他の車の迷惑にならないよう、端に寄せて停めるなどの配慮を忘れないようにしましょう。
登城口周辺の道は非常に狭く、路上駐車は絶対にできません。マナーを守って、気持ちよく見学しましょう。
文化財としての価値と現状
土山城跡は、現在、国や県からの文化財指定は受けていません。しかし、甲賀地方の城郭群の中でも特異な構造を持ち、戦国時代末期の城郭改修の様子を知る上で非常に重要な遺跡として、城郭ファンや研究者から高く評価されています。
特に、甲賀の城郭に豊臣秀吉の関与を示す可能性のある「馬出し」が良好な状態で残っている点は、学術的にも大きな価値があります。地元の方々によって下草刈りなどが行われており、見学しやすい状態が保たれていますが、今後、その歴史的価値が再評価され、文化財として保護されることが期待されます。
まとめ:土山城跡で歴史を感じる
甲賀の地に眠る戦国の城、土山城跡について解説しました。この記事のポイントを最後にまとめます。
- 土山城跡は滋賀県甲賀市土山町にある中世の城跡
- もともとは甲賀武士の一族、土山氏の居城だった
- 1582年に織田信長の家臣・滝川一益によって落城
- 後に豊臣秀吉などの名将によって改修されたと考えられている
- 最大の見どころは甲賀の城では珍しい「馬出し」の遺構
- 土塁や堀切が良好な状態で残っている
- 城めぐりの所要時間は約45分から1時間程度が目安
- アクセスは車が便利だがバスでも訪問可能
- 専用駐車場はなく、近くの集会所の駐車場を利用するのが一般的
- 文化財指定はないが、歴史的に非常に価値の高い古城
- 戦国時代のリアルな城の姿を体感できる
- 甲賀の歴史と名将の痕跡を探しに土山城跡を訪れてみよう
土山城跡の情報と地図
公式サイト | 土山城跡 |
住所 | 滋賀県甲賀市土山町北土山1788 |
営業時間 | 24時間営業 |
料金 | |
電話番号 | |
駐車場はありますか? | なし |