
徳島県那賀町の仁宇城跡へ行ってみたいけれど、どこに城があったのか、現在も遺構が残っているのか分かりにくいと感じる方もいるのではないでしょうか。仁宇城は和食城や仁宇山城とも呼ばれ、戦国時代の仁宇谷や蜂須賀氏の阿波支配と深く関わった城です。
現在の那賀町和食にある城跡では、発掘調査によって土塁や堀、櫓台、虎口、土橋など城館を構成する遺構が確認されています。一方で仁宇城、小仁宇城、和食城という名称や場所の扱いには資料による違いもあるため、初めて調べると少し迷いやすい城なんですね。
この記事では、仁宇城跡の場所や歴史、仁宇谷一揆、阿波九城との関係、現在見られる遺構、アクセスや見学時の注意点まで、初めて訪れる方にも分かりやすく紹介します。
- 仁宇城跡と和食城・仁宇山城の関係
- 仁宇谷一揆から阿波九城となるまでの歴史
- 土塁・堀・虎口など発掘調査で分かった遺構
- 現在の城跡の見方とアクセス・見学時の注意点
仁宇城跡はどんな城?
仁宇城は、徳島県南部を流れる那賀川中流域に置かれた城です。現在の那賀郡那賀町にあたり、戦国時代には仁宇谷を押さえる城として、その後は蜂須賀氏による阿波支配を支える拠点として重要な役割を担いました。
徳島県那賀町にあった平城
仁宇城は、現在の徳島県那賀郡那賀町にあった城です。
徳島の城というと山の上に築かれた山城を思い浮かべるかもしれませんが、仁宇城は那賀川沿いの平坦な土地を利用した城館でした。
那賀川の中流から上流へ続く地域は、かつて仁宇谷と呼ばれています。仁宇城はその地域を押さえる拠点として機能していました。
現在は天守や櫓などの建物が残る観光城ではありません。城跡を歩きながら土塁や地形を観察し、かつての城の姿を想像するタイプの史跡です。
私もこうした城跡を見るときは、建物がないから何もないと考えるより、川や道路、周囲の地形と城の位置関係を見るようにしています。仁宇城も那賀川との関係を意識すると、なぜこの場所が拠点として選ばれたのかが見えてきます。
和食城・仁宇山城とも呼ばれている
仁宇城について調べると、和食城や仁宇山城という名称が出てきます。
ここは少し分かりにくいところです。
現在の那賀町和食にある和食城跡については発掘調査が行われており、その成果から、蜂須賀氏が阿波国内に配置した「阿波九城」の仁宇山城である可能性が高いと考えられています。
一方、和食城跡より西側には小仁宇城跡があり、さらに仁宇城跡を示す石碑も存在するため、古い資料や城郭関係の案内では城の名称や場所の扱いが異なることがあります。
仁宇城跡を訪れるときは、「仁宇城」「仁宇山城」「和食城」「小仁宇城」がすべて完全に同じ場所を示す名称だと考えないほうが分かりやすいです。近年の発掘調査では、那賀町和食の和食城跡が阿波九城の仁宇山城だった可能性が高いとされています。
仁宇城跡の歴史
仁宇城の歴史を知るうえで重要なのが、戦国時代に仁宇谷を支配した在地勢力と、豊臣秀吉の四国平定後に阿波へ入った蜂須賀氏です。特に1585年の仁宇谷一揆は、城のその後を大きく変える出来事となりました。
戦国時代には仁宇谷を押さえる城だった
戦国時代の仁宇谷では、湯浅氏などの在地勢力が力を持っていました。
仁宇城については湯浅対馬守の居城だったとする伝承が残されています。
当時の阿波では三好氏をはじめとする複数の勢力が争い、やがて土佐の長宗我部元親が阿波へ勢力を伸ばしてきます。
仁宇谷の勢力も、この大きな政治・軍事情勢の変化に巻き込まれていきました。
山に囲まれた仁宇谷と那賀川流域を支配することは、地域を統治するうえで大きな意味があったのでしょうね。
長宗我部元親の阿波侵攻
16世紀後半になると、土佐の長宗我部元親が阿波への進出を本格化させます。
仁宇谷の勢力は当初これに抵抗しましたが、やがて長宗我部氏の影響下へ入ったとされています。
長宗我部元親は阿波だけでなく讃岐や伊予にも勢力を広げ、四国統一を進めました。
ところが、その状況は長く続きません。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定が行われ、長宗我部元親は土佐一国へと領地を縮小されます。
そして阿波には、新たな領主として蜂須賀家政が入ることになりました。
1585年に仁宇谷一揆が起こる
蜂須賀家政が阿波へ入った直後、仁宇谷では大きな争いが起こります。
仁宇谷一揆です。
それまで地域を支配していた土豪勢力にとって、新しい領主による統治は自分たちの立場を大きく変えるものでした。
仁宇谷の土豪たちは蜂須賀氏に抵抗しますが、蜂須賀家政は家臣を派遣して一揆を鎮圧します。
その鎮圧で中心的な役割を果たした人物が山田宗重です。
仁宇城の歴史をたどると、この一揆が中世的な地域支配から蜂須賀氏による近世的な阿波支配へ変化していく転換点だったことが分かります。
山田宗重が城代となる
仁宇谷一揆の鎮圧後、山田宗重は仁宇地域の支配を任されました。
そして和食の城館を拠点とし、蜂須賀氏の家臣として地域を統治していきます。
山田宗重はおよそ5,000石規模を与えられたとされ、仁宇城は軍事拠点だけではなく地方支配の拠点としても重要になりました。
蜂須賀氏にとって、独立性の強かった仁宇谷を安定して統治することは重要だったはずです。
城を置き、信頼できる重臣を配置することで、那賀川上流域まで支配を浸透させていったと考えると分かりやすいですね。
仁宇城は阿波九城の一つ
仁宇城の歴史で特に注目したいのが「阿波九城」です。蜂須賀氏は徳島城だけですべての領地を直接守るのではなく、阿波各地の重要地点に支城を配置しました。
蜂須賀氏が阿波各地に配置した9つの支城
天正13年(1585年)、蜂須賀家政は豊臣秀吉から阿波国を与えられました。
家政は当初、一宮城へ入った後、新たに徳島城を築いて本拠地とします。
そして阿波国内の重要地点に支城を置き、重臣を配置しました。
これが阿波九城です。
一般的には、一宮城、撫養城、西条城、川島城、脇城、大西城、牛岐城、海部城、仁宇城が阿波九城として知られています。
仁宇城には山田宗重が置かれ、仁宇谷を含む那賀川流域の支配を担いました。
徳島市の一宮城も阿波九城と深い関係があります。一宮城について詳しく知りたい方は、にほん旅さんぽの徳島県観光情報とあわせて城巡りの計画を立ててみるのもいいですね。
一国一城令後も存続したとされる
元和元年(1615年)に江戸幕府が一国一城令を出すと、全国各地で多くの支城が廃止されました。
ところが阿波では、九城がすぐにすべて廃止されたわけではありません。
仁宇城を含む阿波九城は、寛永15年(1638年)ごろまで維持されたとされています。
阿波の地形や統治事情を考えると、徳島城だけでは広い領内を管理することが難しく、地方拠点が必要だったことがうかがえます。
その意味でも、仁宇城は徳島城から離れた那賀川上流地域を支える重要な城だったのでしょう。
発掘調査で分かった仁宇城跡の姿
現在の城跡を見るうえで大きな手掛かりになるのが、和食城跡で実施された発掘調査です。建物は失われていますが、地下には城館の構造を知る重要な遺構が残されていました。
東西約110m・南北約120mの城館
和食城跡の発掘調査では、城館が東西約110m、南北約120mの規模を持っていたと推定されています。
形は完全な四角形ではなく、不整方形の城館だったと考えられています。
北・東・西側には堀と土塁が設けられていました。
天守を中心にした近世の巨大城郭とは異なり、地形と土塁、堀を組み合わせて防御する城館だったことが分かります。
現在の景色だけでは当時の姿を想像しにくい場所ですが、約100m四方を超える規模だったと知ってから歩くと、印象がかなり変わると思います。
土塁・櫓台・虎口・土橋を確認
発掘調査では、土塁、櫓台、虎口、土橋などが確認されています。
土塁は土を盛り上げて築いた防御施設、虎口は城の出入口です。
土橋は堀などによって区切られた場所を通行するために設けられた通路で、城への出入りを限定する役割もありました。
櫓台とみられる場所も確認されており、単純に屋敷を塀で囲んだだけではなく、防御を意識した城館だったことが分かります。
仁宇城跡の面白さは、派手な天守ではなく、発掘調査によって城館の具体的な構造が少しずつ明らかになっているところです。現地では土塁や周囲の高低差を意識して見ると、かつての城の姿を想像しやすくなります。
城より古い時代の遺構も発見された
さらに興味深いのが、和食城跡の土地が戦国時代よりはるか昔から利用されていたことです。
発掘調査では弥生時代後期前半の遺構や遺物も確認されています。
つまり、この場所の歴史は仁宇城だけではありません。
那賀川沿いの土地として古くから人々が活動していた場所に、後世になって城館が造られたことになります。
城跡だけを目的に訪れると見落としやすい部分ですが、那賀川と人々の暮らしの歴史を考えるうえでも興味深い場所ですね。
現在の仁宇城跡の見どころ
仁宇城跡には復元天守や資料館はありません。現地では城址碑や土塁、周囲の地形などを確認しながら、歴史をたどっていく楽しみ方が中心になります。
蛭子神社周辺に城館の痕跡が残る
阿波九城の仁宇城、つまり仁宇山城の有力な比定地とされているのが、那賀町和食の蛭子神社周辺です。
那賀川と中山川が近くを流れる場所で、川と地形を防御に利用しやすい立地になっています。
神社周辺では土塁状の地形などを確認できます。
ただし、発掘調査で確認された遺構のすべてが、観光施設のように地表へ復元・展示されているわけではありません。
「ここに大きな城が残っている」と期待して訪れるより、歴史的な場所を歩きながら城館の痕跡を探すつもりで訪れたほうが楽しみやすいでしょう。
仁宇山城址を示す石碑
周辺には仁宇山城跡を伝える石碑があります。
こうした石碑は、現在では分かりにくくなった城跡の存在を伝えてくれる大切な目印です。
一方、仁宇地区にも仁宇城跡を示す石碑があり、城跡の位置について混乱しやすい原因にもなっています。
現在は発掘調査と文献の整合性から、和食城跡が阿波九城の仁宇山城だった可能性が高いと考えられています。
城址碑の場所だけで判断するのではなく、和食城跡や小仁宇城跡を含めた地域全体の歴史として見るのがおすすめです。
仁宇城跡と小仁宇城跡の違い
仁宇城を調べていると「小仁宇城跡」という別の城跡が出てきます。名前がよく似ていますが、発掘調査では別の遺跡として扱われています。
小仁宇城跡は別の場所にある
小仁宇城跡は、和食城跡より西側の那賀川右岸に位置する城館跡です。
標高約55mの河岸段丘上に立地しています。
平成29年度(2017年度)などに発掘調査が行われ、掘立柱建物跡や溝などが確認されました。
さらに15世紀を中心とする遺物も見つかっています。
そのため、仁宇谷では阿波九城となった和食城だけでなく、それ以前から複数の城館が存在していたことが分かってきています。
名称だけで同じ城と判断しない
古い城郭資料では、小仁宇城と仁宇城を同一視する場合もありました。
しかし、現在の発掘調査では和食城跡と小仁宇城跡は別の遺跡として調査されています。
また、和食城跡については阿波九城の仁宇山城である可能性が高いという調査成果が示されています。
歴史好きの方なら、こうした研究によって城の位置や構造が少しずつ更新されていくところも面白いのではないでしょうか。
古城の所在地や名称は、後世の伝承と発掘調査の成果が一致しないことがあります。仁宇城についても断定できない部分が残るため、現地では和食城跡、小仁宇城跡、城址碑の位置を区別して考えると理解しやすくなります。
仁宇城跡の見学時間
仁宇城跡は広大な山城を何時間も歩くタイプではありません。和食城跡周辺を中心に見るなら比較的短時間で回れますが、歴史を意識して周辺まで歩くなら余裕を持っておきたいところです。
城跡周辺なら30分前後を目安に
蛭子神社周辺を中心に城跡の地形や土塁などを見るなら、30分前後をひとつの目安にするといいでしょう。
ただし、これはあくまで一般的な目安です。
城址碑を確認したり、周辺を歩いて那賀川との位置関係を見たりする場合は、もう少し時間が必要になります。
小仁宇城跡など仁宇谷の城館を合わせて巡るなら、移動時間を含めて余裕のある計画がおすすめです。
観光整備された城ではない点に注意
仁宇城跡は徳島城のように公園として大規模に整備された城跡ではありません。
城跡と現在の神社や住宅地などが重なる地域なので、私有地や立入禁止場所には入らないようにしてください。
遺構を探すために藪や斜面へ無理に入るのも避けましょう。
城跡周辺の土地利用や立入可能範囲は変化する場合があります。現地の案内表示や土地所有者の権利を優先し、許可されていない場所には立ち入らないでください。安全面や立入りについて判断が難しい場合は、自治体などの担当窓口や必要に応じて専門家にご相談ください。
仁宇城跡へのアクセス
仁宇城跡がある那賀町は徳島県南部の内陸部に位置します。車での移動がしやすい地域ですが、公共交通機関を利用する場合は運行本数を含めた事前確認が大切です。
車なら国道195号を利用
徳島市や阿南市方面から車で訪れる場合は、国道195号を利用して那賀町和食方面へ向かうルートが分かりやすいです。
城跡の有力な比定地となる和食城跡は、蛭子神社周辺を目印にすると位置を確認しやすくなります。
那賀町は山間部へ向かう道路が多く、天候や道路工事によって所要時間が変わる場合があります。
特に徳島市方面から日帰りで複数の城跡を巡る場合は、移動時間を多めに確保しておくと安心ですね。
公共交通機関はバスの時刻を確認
公共交通機関を利用する場合は、那賀町和食方面へ向かう路線バスなどを利用する方法があります。
ただし、地方路線は都市部の鉄道やバスほど運行本数が多くありません。
往路だけ確認して出かけると、見学後に長時間待つことになる可能性があります。
訪問当日の運行状況、停留所、時刻表を確認し、必ず帰りの交通手段まで決めておきましょう。
専用観光駐車場を前提にしない
仁宇城跡は大規模な観光施設ではないため、城跡専用の大きな観光駐車場がある場所とは考えないほうが安心です。
神社や周辺施設の駐車スペースについても、城跡見学者が自由に利用できるとは限りません。
現地の駐車案内を確認し、無断駐車や路上駐車は避けてください。
駐車場所の利用条件は変更される可能性があるため、車で訪れる場合は最新の現地情報を確認することをおすすめします。
仁宇城跡と一緒に楽しみたい那賀町
仁宇城跡だけを見て帰るのもいいですが、せっかく那賀町まで足を運ぶなら、那賀川沿いの風景や周辺の観光も組み合わせると旅に広がりが出ます。
那賀川の地形にも注目してみよう
仁宇城の歴史を理解するなら、那賀川は外せません。
現在の那賀町は地域の大部分を山地が占め、その中を那賀川と支流が流れています。
戦国時代に地域を支配するうえでも、川沿いの交通や集落を押さえることは重要でした。
仁宇城跡を訪れたら、城跡だけを見て終わるのではなく、周囲の山と那賀川の位置も見てみてください。
地図と実際の景色を見比べると、仁宇城が仁宇谷を押さえる拠点だった意味がぐっと理解しやすくなると思います。
徳島の城跡巡りにも組み込みたい
仁宇城は阿波九城のひとつなので、徳島県内の城跡と組み合わせるのも面白い楽しみ方です。
特に一宮城は、蜂須賀家政が阿波へ入った直後に本拠とした城で、仁宇城と同じく阿波九城に数えられます。
山城の一宮城と、那賀川沿いに地方支配の拠点として置かれた仁宇城を比べると、同じ阿波九城でも立地や役割が違うことが分かります。
さらに徳島城まで巡れば、蜂須賀氏がどのように阿波を統治していったのか、城跡を通して追いかけることができます。
仁宇城跡を訪れて阿波九城の歴史を感じよう
仁宇城跡は、立派な天守や石垣が残る城ではありません。しかし、戦国時代の仁宇谷から仁宇谷一揆、蜂須賀氏による阿波支配、そして阿波九城へと続く歴史を知るうえで、とても興味深い城跡です。
特に近年の発掘調査によって、和食城跡では東西約110m、南北約120mの城館が存在し、土塁、堀、櫓台、虎口、土橋などを備えていたことが分かってきました。
そして文献との整合性から、和食城跡が阿波九城の仁宇山城だった可能性が高いと考えられています。
一方で、近くには小仁宇城跡や仁宇城址を示す石碑もあり、城の名称や位置には複雑な部分が残っています。
だからこそ、単に城址碑を見るだけではなく、那賀川や周囲の地形、和食城跡、小仁宇城跡まで含めて仁宇谷の歴史として見ると面白いですね。
見学時間や交通の所要時間などの数値は、あくまで一般的な目安です。交通機関、道路状況、駐車場所、立入可能範囲などは変更される場合がありますので、訪問前には正確な情報は公式サイトや自治体の最新案内をご確認ください。
また、城跡には私有地や足元の悪い場所が含まれる可能性があります。現地の案内や規制を優先し、安全や立入りについて判断が難しい場合は、最終的な判断は自治体などの担当窓口や専門家にご相談ください。
仁宇城跡の基本情報
| 住所 | 徳島県那賀郡那賀町仁宇・城山周辺 |
|---|---|
| 営業時間 | 屋外城跡のため見学可を基本 |
| 定休日 | 原則なし。山道・周辺環境に注意 |
| 駐車場 | 周辺駐車状況を確認 |
| アクセス | 那賀町仁宇地区へ車・バス利用後、徒歩で城跡周辺へ |
仁宇城跡の場所
周辺情報
この近くのスポット
このあと、どこ行く?
今いる場所から近い飲食店・観光スポット・神社や寺院・ご当地グルメ・ホテルを探せます。
位置情報は検索のためだけに使用し、この機能では保存しません。
📍 旅を続ける
このあと、どこ行く?
今いる場所から、次に立ち寄れるスポットを探せます。
週末、どこ行く?
日本の魅力を、見つけに行こう
観光スポット・ご当地グルメ・神社やお寺など
あなたの次の旅がきっと見つかる、旅行情報サイト「にほん旅さんぽ」
今から楽しめる場所を探す
今いる場所から、次に行けるスポットを距離順で探せます。
観光・グルメ・神社やお寺・ホテルまで、旅の続きをその場で見つけよう。
🔒 位置情報は検索のためだけに使用し、この機能では保存しません。